IT Plusに藤代裕之氏が連載している「ガ島流ネット社会学」の最新記事として、秋葉原事件で融解した「野次馬」と「報道」の境界という記事が掲載されています。
ちょうど前回の日記でユーザが創造する「直感」の時代を書いたばかりで繋がりがあるのと、2chをはじめとするネット掲示板で今回の事件に対する野次馬の行動についてのバッシングがあり、印象に残っていたので取り上げることにしました。
記事の中で藤代氏が指摘している「報道」と「野次馬」の間にはっきりとした境界がないことや、インターネットユーザが既に表現活動を行える環境を持ち、誰でもこれまでマスコミとして称されていた側の立場になり得ることについて、感慨深いものがあり、記事を読みながら当事者の意識を感じることができました。
私なりに、「報道」と「野次馬」の違いを考えてみました。
まず、「報道」に望むことは、
・嘘偽りのないこと
・正確であり、内容に誇張がないこと(誤解を与えないこと)
・迅速に行われること(タイムラグが短いこと)
・偏りのない客観的な視点からの報道であること
といったところでしょうか
一方、「野次馬」と聞いてイメージすることは、
・情報を最前で知ろうとする一般人(無関係な者)の集まり
・便乗して私利私欲を満たそうとするもの(カメラに写ろうとするもの、など)
・内容関係なく騒ぎを好む者
・本来行うべき動作を妨げる邪魔者
というように、イメージのよいものではありません。
どちらかというと正確な判断を鈍らせる印象があります。
では、プロフェッショナルとして活動する報道マスコミ関係者全員が先の理想となる「報道」に則り、活動を行っていると思うか問われた場合、私は力強く頷くことはできません。
むしろ、首をかしげてしまいます。
もちろん私達の耳に届くまでに他人の介入があり、フィルタが掛かったものであることは承知しています。プロフェッショナルの仕事によって生み出されているので、信憑性の高いことであることも。
ただ、それが正当なものかというのはシステマチックに比較処理しない限り、判断が難しいでしょう。
また、マスコミの背景にうごめく強力な力にも疑いをもってしまいます。
・・とはいえ、プロフェッショナルの仕上げた仕事は、分かり易く受け容れ易い形になっているのも事実です。
数行記事を読むだけでその記者のセンスを感じる時も少なくありません。
現時点で私達が信じるしかないものの代表と言えます。
一方、野次馬が取り上げたネタを集めて報道に取って代われるでしょうか?
リアルタイム性という点では優れていても、現時点では内容のクオリティが低く、情報に混乱があるなどして信憑性も低いので難しいでしょう。
しかし、ある情報を万人の目が評価できるような仕組みができあがった場合(語彙辞典であるWikipediaが近いのですが)、とても透明性の高いものになることが期待できます。
既に記者が記事の中でブログの一部を引用したり、一般人が撮影した写真を活用したりしていることからも、うまく連携することは可能で、それにより透明性のある情報に濾過していくことはできると思います。
我々視聴者が行うべきことは報道に取って代わることではなく、報道の透明性を増すためのフィルタの役割を担うことです。
また、マスコミは一般大衆の力を正しく利用することを考える時です。
Wikipediaはほんの序章に過ぎません。
大衆を操作するのではなく、大衆がもつ濾過機能をいい方向に活用して欲しいものです。